金沢市建築組合のなりたち 不定期連載3
第2章、組合設立の萌芽
最初の組合
 金沢市内に在住する大工100余名が集い、はじめて同業者組合を結成したのは、明治27年3月であった。名称を 金沢市大工職組合とした。
日本で最初に結成された建設業者の組織は明治17年に東京で設立された「土工組合」と言われている。「日本土木組合」が結成されたのは明治32年で、土木と建築の両業者がはじめて一つの団体を結成したのは、明治36年となっている。金沢市大工職組合の結成はそれより10年近く早い時期であった。昔ながらの職人の、親方→弟子 という縦の関係のみ深くなり、横の関係が希薄になりがちなこの業界も、明治という新時代を迎えて、同業者同士の団結を強めなければならないとの思いで金沢市大工職組合は創立された。はじめは、市内を7地区に分けて、第1連区から第7連区まで、7つの支部で発足したこの組合も、しかし時期尚早だったのか組合員同士のまとまりがかなわず、結成後4年で解散してしまった。それでも業界をまとめる団体の設立を望む声は消えず、明治30年ころ再び大工職組合が組織されたがこれも3〜4年で解散してしまった。その後は各連区に15〜30名の小組合が連立するという形態がしばらく続く。当時の小組合としては、第2連区に北陸組、犀川友組、第3連区に大盛組、第4連区に天満組、第5連区に大同組、第6連区に北国組、出盛組、第7連区に和友組などがあった。

 
金沢市建築組合のなりたち 不定期連載2
2、明治期の石川の近代建築 
尾山神社 
 神門は当時の金沢市長 長谷川 準也 の出入りの大工 津田 吉之助 が棟梁となり、明治8年(
1875年)に完成しました。日本の伝統的な神社建築を構造の主体としながらも外観は当時流行していた洋風と和風が混じり合ったものとなっています。神門の高さは18メートルで、さらに8メートルの高さの避雷針が設けてあります。落雷による火事の多い金沢市の特性を考慮したのでしょう。この避雷針は日本最古のものといわれています。神門の灯火にはロシア製の石油ランプが用いられ、火を入れるとそのまま灯台としても使われたそうで、当時の尾山神社からは日本海が見渡せたのでしょう。この構造については金沢医学館の教師だったホルトマンが指導したと言われています。
 
石川の洋風建築 
 洋風建築が金沢に登場したのは、明治4年1月。鉱山学所講師として招かれたドイツ人デッケンのために、兼六園山崎山の下に建てられました。(現在はありません。)以降、福浦旧灯台
(羽咋郡志賀町 県指定史跡)、珠洲郡役所、金沢カソリック教会付属館、北陸学院ウィン館、旧第九師団司令部(現 石川県健民公社)、石川県立郷土資料館、元北陸銀行尾張町支店(現、町民文化会館)、金沢市立紫錦台(しきんだい)中学校(金沢市民俗文化財展示館)、など多くの洋風建築が建てられました。
            参考 石川県近代建築のページ

 
金沢市建築組合の なりたち 不定期連載1

 序章 加賀藩 大工の成り立ち
 、加賀藩の成立 加賀大工の誕生
 前田利家 公 の金沢城入城(1583年)以来、加賀藩では京都に負けない職人王国を築くべく、各地から工芸職人を集め、技術の育成に努めてきました。特定の職人たちは定められた地域に居住し地番変更以前の昔の地名には、象眼町、鍛治町、塩屋町、米町、石伐町などというものがありました。今も 大工町、博労町 など金沢市内に残っている町名もあります。大工町に居住していた大工たちは町大工に対して 拝領地大工または、加賀藩の御用を勤める大工たちは御帳面大工といわれ、関ヶ原合戦への従軍大工や、平時にはお城の普請や、江戸藩邸の普請などに活躍し、のちには加州大工、加賀大工、金沢組大工と呼ばれるようになりました。(金沢組大工肝煎六助(四代 黒川六助)が作事奉行に提出した「由緒書」より〈1685年〉)
 町大工については、はっきりとした資料は残っていませんが、文化8年(1811年)の「慰御能拝見」に招かれた人の記録を見ると、町大工561人、御作事方大工1,255人 と大工の数はほかの職人に比べて圧倒的に多かったと思われます。

 加賀大工の仕事
 このように、藩の庇護を受けた大工の中から、名工 といわれる者たちが多く育ちました。中でも加賀藩大工の鼻祖ともいわれる 山上家が手がけた建築物には名建築といわれ、現代に残っているものが多くあります。小松市 那谷寺(重要文化財)、高岡市 瑞龍寺 は山上善右衛門嘉広の設計施工で、気多大社や小松天満宮など多くの社堂や、天徳院 山門・御霊堂なども山上家の手によるものです。また妙成寺(重要文化財)の本堂、祖師堂などは、同じく加賀藩大工の坂上家一統の手になったと考えられています。
このように、昔から加賀藩 金沢市には職人を保護し育てていく という気風が見られ、藩が大事にするのですから、庶民の間でも職人、特に大工の棟梁は 人々から深い尊敬の念を受けていたようです。
 人々は敬意を持って接し、職人はそれに応えるべく技術を磨き、誠心誠意の仕事で答える。いつの時代もこうありたいものです。
         (参照:金沢市建築組合組合史 より)26・11・6